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日本マニラ会 設立趣意書

日本マニラ会 会長 鹿島三寿

私は昭和39年に初めてフィリピンのマニラに観光に参りました。生まれて初めての海外旅行でしたので見る事聞くことも、私にとりましては驚きの連続の毎日でした。 特に感じましたことは、市内で見かけた子供達の貧しい身なりでした。破れた衣服、そして底の擦りへった靴を履いている子供達のいかに多いかということ、それに比較いたしまして私達日本人の子供達の恵まれた日常生活!あまりにも違う姿に驚きと悲しさを感じてしまいました。
私は以前に栃木県の喜連川に有る養徳園と云う孤児の施設に慰問に伺ったことがありました。当時と違い現在では学生さん又民間の慈善団体の方々が数多く慰問に来ているとの事を聞き及びまして私も安堵しておりました。
私は日本に帰国いたしましてPTAの方にフィリピンの子供達の現状をお話し致しましたところ、PTAの婦人部の方々が古着ですが、綺麗な衣類や運動靴又,玩具等を沢山集めてきて下さいました。当時はフィリピンへの団体観光旅行が盛んでしたので日本航空の職員の御協力を頂きまして、無料にて現地迄寄贈品を送る事が出来ました。
在フィリヒン日本大使館の一等書記官谷地氏の御協力を得まして、マニラ市内の小学行に皆様よりの品々を寄贈させて頂きましたところ、大変喜んで頂きました。その後は養老院等も慰問させて頂きました。
友人の円谷氏の紹介にてマニラ市内でラーメン店を経営されて居る大槻英一氏と知り合いましてマニラ会と言う日本人のボランテア団体が有る事を知りました。 大沢清初代会長のもと現地女性と結婚して個人で商売をしている方や営業主の方等、千差万別の会員で構成されて居るとの事でした。バギオの恵まれない子供達に奨学金を出して援助していること。日比の文化交流のイベント等を実施しているとのこと等、私の考えている事と一致しておりますので大槻氏の紹介にてマニラ会に入会させて頂きました。
私も縁ありまして現地女性と結婚いたしましたのでマニラ ケソンシティ パラニヤケに家を買いました。そして自宅裏に小さな教室作りました。又サウスランドという処にマニラ会,会員であつたアカサコ氏の紹介にて1階は寄宿舎、2階は教室の出来る建物を借りましたので日本語学校(日比会館)を設立いたしました。 日本大使館の職員である宮田ガンさん他の御協力も賜りまして日系2世の子供達に日本語を教えて参りました。
しかしながら私の一身上の都合に依りまして、平成4年2月に急遽日本に帰国する事に成りました。とても残念な事でしたが止む終得ず廃校致しました。学校運営に尽力して下された皆様に対しまして心よりお詫び申し上げる次第です。
帰国後身体を壊しまして入退院の繰り返しをしてお居りましたのですが、平成14年1月にマニラに行く事が出来る様に成りました。10年ぶりにマニラ会の大槻氏と会いまして旧交を暖める事が出来ました。現在は毎年1回マニラへ行く事にして居ります。 私が栃木県に居住するように成ったのは、不測の事故にてアキレスケンを切断し白河の小俣整形外科に入院し、その後脳梗塞にて大田原日赤病院、野間脳神経外科病院、脊椎狭窄症にて那須中央病院その後2回も交通事故に合いまして入院と云う事情にて栃木県に居住する事に成りました。遇全あるフィリピン女性の離婚に發展しそうな問題の相談を市役所より受けました事から室井レニー夫妻と知り合いました。これが縁で当、黒磯市には多くのフイリピンの方が住まわれて居る事を知りました。
私が第二の故郷と思っていたフイリピンの人達が故郷を遠く離れ色々な困難に耐えながら働いて居るフイリピンの人達の少しでもお役に立つ事が出来ればと日本マニラ会を設立いたしました次第です。
戦国時代の昔からルソン島には数多くの日本人がおもむき交易を結んで居りました。遠くて近い国、フィリピンの人達に、我々日本人が暖かい手を差し伸べて行こうでは有りませんか。皆様の御理解、ご協力を御願い申し上げます。

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